東日本大震災から1年の日に思うこと
東日本大震災から1年の日に思うこと
掲載した写真はすべて、2011年3月12日、東日本大震災の翌日、宮城県気仙沼市にお住まいの私の会員の方(17期卒業生)がお撮りになったものです。
あの日、東京も大きな揺れに見舞われたものの、さしたる被害もありませんでしたが、一方で、東北地方の被害状況が伝えられるにつれ、大切な会員のみなさまの安否確認に追われる日々が始まりました。
幸いにも現会員の方との連絡は比較的早く取れるようになり、全員のご無事を確認しました。卒業生の方に関しては、ご卒業後は変更を把握できない場合もあり、すべてとは申せませんが、お一人をのぞいては、ご無事を確認できました。
そのお一人とは、宮城県気仙沼市にお住まいの方で、私の会員の方の中では数少ないお父様でした。歯科医というお忙しいお仕事をなさりながら、真摯に学んで下さり、1年目第1回からオプショナルコースの最終回まで、すべてのレポートをご提出下さいました。また、仙台でモンテッソーリ大会が開かれたときには、わざわざご夫妻で駆けつけて下さいました。
ご住所からみても、津波の被害がなかったとはとても思えない場所でした。せめてお命だけは、と祈りながら、なんの手立てもなく、日がたつにつれて被害の様子は拡大する一方でした。なんとかご無事でいらっしゃることだけでも確認したいと検索を続ける中で、グーグルのPERSON FINDER という機能を発見しました。
実は私はあの阪神淡路大震災で、小中時代の親友とそのお子さん(生きていらっしゃれば次女と同じ年です)を亡くしており、そのときはまだパソコンという手段もなく、来る日も来る日も、新聞の死亡欄を追い続けて、ある日、二人のお名前を発見してしまったのです。
ですから、お名前を入れるのにも本当に勇気が要りましたし、今回は比較にならないほどの甚大な被害ですから、果たして出てくるのかどうか、と不安な想いを抱えたまま入力しました。
数日はなんの情報も得られませんでしたが、3月20日ごろ、生きているという情報をつかんだ、という方からの書き込みがあり、小躍りし、涙しました。私も安堵した旨の書き込みをさせていただき、また、3月末ごろには、ご自身からの書き込みがありましたので、それでようやく本当の情報だと確信を得ました。
直接、メールのやりとりができるようになったのは、6月にはいってからでした。そのメールに添付されていた写真がトップページに掲載したものと、以下のものです。何度かのメールのやりとりから、被災地の生の声がとてもよくわかりますので、みなさまにもお伝えしたいと思います。(注:個人が特定できるような部分は変えてあります)
2011年6月5日のメールより(抜粋)
とりあえず、家族は皆無事ですが、自宅は床上130cmの冠水被害を受け現在住むことができず、私の実家が被害がなかったので、現在は実家に住んでいます。
本当にこんな事態に巻き込まれるとは思ってもみませんでした。それほど海から近いわけでもないので、地震による被害はほとんどなかったので、津波に対しては無警戒でした。
自宅の方は2階は無事でしたが、1階は私の部屋があったので、自分のものは衣服やパソコン、本なども含め、全て駄目になりました。
(写真はクリックすると大きくなります。ご自宅内部の被害状況がよくわかります。)
診療所は1階が駐車場で2階が診療室だったので、ここも床上130cm冠水しましたが、1階の機械室のバキューム、コンプレッサーなどの機器が被害を受けただけで、5月からなんとか診療を再開することができました。
(写真はクリックすると大きくなります。診療所の被害状況、床上130㎝がよくわかります。)
それまでは、毎日診療所と自宅の瓦礫と泥の撤去に明け暮れる毎日でした。
エアコンやエレベーターも使用することができず、これから夏に向けてどうしようかと頭を悩ませております。
診療所のスタッフも震災当日はここに残っていたのですが、自宅が全壊した者、子供が津波に巻き込まれてまだ行方不明の者・・・などとても残念なこともありました・・・
震災当日のことをお話ししますが・・・私は診療室にいましたが、歩いて5分くらいのところにある自宅に戻ったところで津波に巻き込まれてしまい、なんとか濡れながらも自宅に入って難を逃れました。
妻と子ども2人は外にいて、友人の家にいったん避難したのですが、津波が来るというので、避難しましたが、その友人宅は全部流されて、今では瓦礫の山となっている地区だったので、想像するだけでゾッとします・・・
(写真はクリックすると大きくなります。奥様とお子様たちが、一時避難されていた場所の状況はこうです。)
まだまだ全体の復興には時間がかかりそうですが、なんとか頑張っていきたいと思います。
2011年10月16日のメールより(抜粋)
徐々にではありますが、私の住んでいる地域では以前のようには戻りつつあります。ただ、少し海側の地域では相変わらず悲惨な状況ではありますが・・・テレビなどではだいぶ復興がすすんでいるような報道も見られますけど・・・まだまだです。
自分の気持ち的には、なんかまだまだ何をやっても何か「空回り」しているような、パズルのピースが足りないような・・・そんな心理状況です。(うまく伝えられるかどうかわかりませんが)
家族の状況は、皆元気ですので安心してください。長男は本当ならあるいて10分の小学校に行く予定だったのですが、小学校自体がが被災したため、ほぼ廃校が決定しました。
IT勉強会の資料は、無事でした。クリアファイルに入れていたのですが、クリアファイルの半分くらいまで津波に浸かって、中身は無事でしたので、新しいファイルに入れ替えました!
常に思っているのは、私も何か被災した人たち、子供たちに何かしてあげられないかな~と、震災当時から自分のことで精一杯で何もできなかったこと(たとえば歯科でいえば避難所を回って治療や健診、または検死など)が心残りでなりません・・・。
我々を取り巻く環境も日一日と変わってきます。本当に何年かけてももっと今まで以上にいろんなことがよくなっていけばいいなと思います。
2011年11月28日のメールより(抜粋)
最近はけっこう寒くなり、先週初雪が降りました。震災の時も雪が降っていたのを思い出します。春・夏・秋と季節は巡り、もう冬ですね~。
あのときは無我夢中で「寒い」なんて思わなかったけど、今はこうして「寒い」と言えるのは幸せなんだろうなとつくづく思います。
自分の仕事場や住んでいる地域ではもうだいぶ落ち着いてきましたので、だいぶ復興がすすんでいるようにテレビなどでは報道をされているようですが、ちょっと港のほうへ行くとまだまだ瓦礫の山と建物の基礎だけ残っている状態です。
同じ宮城県内でも被災していない地域とは震災当初から温度差があり、この状況を実際に見た人でなければわからないんだろうなぁと思います。
むしろこの現実から目をそらしてはいけない、教訓として後生に伝えていけなければいけない使命が我々にはあると、思いました。
この大きな大自然の一部として、たまたま運良く生かされたのではないかと思います。何かちょっと日時とか場所とかが違えば自分が犠牲者になっていたかもしれません。
やはり、大切なのはこの震災、そして被災地のことをいつまでも忘れないでいて欲しいということだと思います。
震災で、いろいろな人から声をかけていただき、支援していただき、本当に嬉しく思います。
たぶんこんなこともなければ、アイちゃん先生ともこうしてメールのやりとりもなかったかもしれません。こうして誰かが気にかけてくれてるっていうことが本当に嬉しいです。
それから、もう一つ、今回の震災で本当に日本人は平和的な人種なんだなと、つくづく思いました。
正直言ってある程度の暴動・・・まではいかなくても何かは覚悟していたのですが(実際暗くなってから外を歩くときは怖かったです)本当にみんな互いを思いやり、親切でした。
こんなにも平和的な日本で平和教育を目指したモンテッソーリ教育が受け入れられないはずがないと、ふと思いました。
いかがでしょうか?大きな被害に遭いながら、わずか2ヶ月でご自身の使命である歯科医療を再開していらっしゃること、ご自身も被災者でいらっしゃるのに、他の被災者のためにできることを模索していらっしゃること、感謝の心、平和を愛する心を持ち続けていらっしゃること、に大きな感動を覚えますね。
このような会員の方が、私の卒業生に、そして会員のみなさまのお仲間にいらっしゃるということを、心から誇りに思います。
そして私たちができること、しなければならないこと、も明確になったと思います。
被災地のことを忘れずに、いつまでもできるかぎりの支援を続けること、互いを思いやり、親切にする心こそが平和へとつながるものであり、そうした平和を生きる人を育てるモンテッソーリ教育を、さらに広めていくことです。
お読みいただき、ありがとうございました。東日本大震災について、また、明日の日本について、何かしらお考えいただけるきっかけになれば、幸いです。
これからも、一人でも多くのみなさまに、モンテッソーリ教育の素晴らしさをお伝えできるよう、私も気持ちを新たに頑張ってまいりたいと思います。
2012年3月11日
エンジェルズハウス研究所(AHL)「てんしのおうち」アイちゃん先生 こと 田中 昌子
改めて東日本大震災で亡くなられた方々のご冥福をお祈りするとともに、被災された方々の一日も早い復興のために、日本全体で、また世界中で、一緒に支援してまいりましょう。